カテゴリー別アーカイブ: 映画

閉じ込められた精神

最近、あるビデオクリップを見た。よく聞いたことのある曲だ。それは、シンガーSiaと天才少女ダンサーMaddie Zieglerとの共演作だ。Siaは顔を一切出さないシンガーソングライターだそうだ。Maddieは少女だがものすごい表現力のあるダンサーだ。どのビデオもメッセージ性が強い。人間の閉じ込められた精神を表しているように思う。そもそも、このようなメッセージ性の強い音楽って時代の空気(閉塞感)を表しているものなのかも。

この年で顔だけでこんな表現できるなんて、この子は天才!

部屋に閉じ込められた創造性

ラストが悲惨。大人は世の中のしがらみから逃れられないのか。考えさせられるビデオです。

Chandelierの日本語訳もあるよ。飲んだくれの歌詞なんだね。シャンデリアにぶら下がるというのは首つりをするという意味だそうだ。ギョッ!

 

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なぜタルコフスキーのストーカーが好きなのか 理由2

 なぜタルコフスキーのストーカーが好きなのか。もう一つの理由は、非常に個人的だが、ストーカーが教授と作家を連れて、ゾーンの中をまるで旅をしているように案内していることだ。私自身、乗り物でツーリングガイドするということがしたいと思っている。比ゆ的にはストーカー(キリスト)は教授と作家という弟子を連れて、苦難の旅に出ていて、そこで色々な事件を解釈し、弟子たちに伝えているのだ。ストーカーは、無理やりこうしろああしろとは言わないがゾーン(人生)の不可解な原則について自分の解釈を説明するのだ。私自身も自然の地形や操作方法などについて自分の知る限りの知識を伝えながら、ツーリングガイドをしていきたいと思っている。スポーツ一般に通ずることだが、スポーツを通して各人が自分なりの何かを見つけ、人生に応用していくのではないかと思う。

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なぜタルコフスキーのストーカーが好きなのか

映画 タルコフスキーのストーカー

 なぜタルコフスキーの「ストーカー」がとても退屈で眠たくなる映画なのに、好きなのかを考えてみた。

3つのストーリーが同時進行

 「ストーカー」は、その中で三つのストーリーが進行していて、それを読み解くのがとても面白いからだ。まず第一のストーリーは、ストーカーという案内人が幸福の部屋と言われる場所を案内するというSF風の現代の物語である。第二のストーリーはキリスト(ストーカー)と二人の弟子たち(パウロとユダ)の物語である(キリスト教の専門家さん、解釈がおかしかったら、ごめんなさい)。第三のストーリーは、哲学や教訓の話になっているということだ。

宇宙人から見ると人間は虫けら同然

 第一のストーリーでは、人間を虫に喩えている。宇宙人が地球にやってきて、ピクニックをしていき、そのピクニックで撒き散らした御菓子やガソリンやお酒などが散在している場所がゾーンと呼ばれるのである。そのゾーンを何も知らない人間という虫が這いずり回っていて、ピクニックのゴミを甘いとかしょっぱいとか危険とか解釈しているだけなのである。宇宙人から見れば、ただのゴミだが、人間という虫から見ると、まったく理解できないゾーンなのである。

ストーカーは予言者キリスト

 第二のストーリーでは、ストーカーはキリストとして描かれている。遠藤周作のキリストの暗いイメージと同じく、ストーカーもいつも暗い顔をしている。キリストには不遇な時代があり、自分ではいいことをしているつもりなのに、周りからは馬鹿にされていた。それと同じようにストーカーも周りからは理解されていない人物なのである。教授(ユダ)はストーカー(キリスト)が大切にしている幸福の部屋(天国の門)を壊そうとした。これもユダがキリストを裏切り、教義を壊そうとしていたのを比ゆ的に表現しているのではないかと思う。

比喩としての人生哲学

 第三のストーリーでは、ストーカーたちの旅は人生に喩えられているのである。たとえば、先を進むために毎回ナットに紐をつけたものを投げて、危険がないかを確認しながら歩を進めている。これは、まるで人生とおなじく、目の前が真っ暗で手探りで進んでいるかのようだ。更に、教授がまっすぐの近道を進もうとすると危険が迫ってきて、戻らざるを得なくなる。その時にストーカーは回り道の方が近いのだと主張する。「急がば回れ」だ。

人生は後戻りできないが、落とし穴にはまることも

 しかも、荷物を忘れた教授が取りに帰りたいと主張すると、ストーカーはゾーンの中では後戻りは絶対にできないといって取りに戻ってはいけないといった。人生も同じく後戻りは出来ないのである。その後、教授はまるで過去の思い出(荷物)を取り戻そうとして、ストーカーの言うことを聞かずに戻ってしまう。ストーカーたちは教授がいなくなったのに気がつくが、あきらめてゾーンの中を進んでいく。ところが、突然、元の場所に戻ってきてしまい、教授もそこに居た。人生と同じく、ぐるぐると同じところを回っているというメタファーとなっている。

 とにかく、「ストーカー」という映画はすべてのシーンに何らかの比ゆ(メタファー)が隠されているので、それを読み解くのが非常に面白いのである。

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ストーカーの映画は原作とかなり異なっている

タルコフスキーの映画ストーカーは、内容的に原作をかなり変えてつくっているそうだ。私としては、期待していたのだが、原作の方は、あまり面白くなかった。

原作:ストーカー (ハヤカワ文庫 SF 504)

映画DVD ストーカー

私の映画評論についてはこちら。

なぜタルコフスキーのストーカーが好きなのか

惑星ソラリス

惑星ソラリスは、タルコフスキーが監督した謎の惑星のSF映画だ。

宇宙飛行士クリスは、惑星ソラリスの調査に向かうが、そこは自分の願望が実現する不思議な惑星だった。クリスは、惑星ソラリスの軌道上の宇宙ステーションで自殺した妻の亡霊たち(?)に悩まされるという話だ。しかしながら、実は本題はそうではない。クリスは、調査に出発前に父親と喧嘩ばかりをしていて、惑星ソラリスの調査に向かう。妻の亡霊に悩まされ、地球に帰還した。クリスは地球にある父居る家に帰ってきた。クリスは家の中を窓からのぞき、父の顔を見つめるが、クリスの顔は無表情だった。ここからこの映画の変わったところで、外には雨が降っていないのに、家の中に雨が降っている。クリスに気づいた父親はドアに現れる。クリスは思わず父の足元にひざまずき父にすがりつくのである。この後、カメラはズームアウトしていく。なんと、クリスが戻ったのは、地球ではなく、惑星ソラリスがクリスの心を読んで、クリスの家を作り上げていたのだった。つまり、この映画で最も訴えたいのは、どんなに喧嘩をして、仲たがいをしていても、父親への愛は変わらないということなのだ。たとえ憎んでいてもクリスは今は亡き父親に会いたくて、惑星ソラリスの幻影の中で暮らしているのだ。そのことが、この最後のシーンに描かれているのである。だとすると、最初の出発のシーンから既に惑星ソラリス上に居たのではないかとも考えられる。私は、この最後のシーンを見ると、とにかく泣けてしまう。眠くなってしまう部分もたくさんあるが、是非タルコフスキーのソラリスを見ていただきたい。

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映画ストーカーのコップは主人公三人の比喩

タルコフスキーの映画ストーカーの最初と最後にコップのシーンが出てくる。

ストーカーが眠っていると、椅子の上に置かれた振動して動き出す。しばらくすると列車の騒音がやってくるのだ。

最後のシーンでも、コップが現れる。ストーカーの子供がテーブルの上で三つのコップを眺めている。突然、コップが動き出し、一つは動かず、一つは縁のところぎりぎりでとまり、一つはテーブルから落ちてしまった。その後、列車の騒音がやってくるのである。

この子供に超能力があり、コップを動かしているという説があるが、私はそうではないと思う。この三つのコップは主人公三人の性格を現しているのだと思う。動かないコップは教授(不信感、冷静)、縁で止まるコップはストーカー(未来を見通す預言者)、落ちてしまったコップは作家(感情的、衝動的)を表している。この時の列車は、ハルマゲンドンのような災害や人災の比喩になっている。

映画の中でも予言者ストーカーは、幸福への道を示しているのに、民衆は理解してくれず、苦しんでいるのである。

まさに、三つのコップこそがこの映画のテーマを表しているのである。

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ブレードランナー

 ブレードランナーは私の好きな映画だ。舞台は未来社会のロサンゼルスで、香港の下町をモデルにしているらしい。レプリカントと呼ばれる人造人間が奴隷のように扱われる時代となっている。宇宙船から4人(映画では4匹と言われている)のレプリカントが逃げ出し、地球に潜伏した。そこで、ハリソン・フォードが演じるブレード・ランナーと呼ばれる殺し屋が雇われ、レプリカントを追跡するという話だ。

 自分を生み出した人間(父親?)を探し出し、自分の寿命を知ろうとして懸命に探し続けるレプリカント達に同情してしまう。

 蛇使いに化けていた女レプリカントのゾーラがハリソン・フォードに撃たれるシーンがとても感動的。音楽とスローの撮影がマッチして、よく作られている。まさに芸術的なカットだ。撃たれるシーンをこんなにも美しくはかなく捉えることのできる監督リドリー・スコットの作り上げた名シーン。

ゾーラが撃たれるシーン

 逃げ出したレプリカントのリーダーを演じるのが、リトガー・ハウアー。映画の最後で、ハリソン・フォードと対決する。最後にハリソン・フォードを追い詰めるが、仲間を殺した奴をぎりぎりのところで助けてしまう。四年という短い一生の出来事の思い出を語り死んでいく。せりふの中で、「雨の中の涙」と言っているが、自分の人生を雨の中にまぎれて分からなくなってしまう涙のようなものだと表現している。なんとも泣けるシーンだ。

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 映画の中では、レプリカントという人造人間のほうが、普通の人間よりも人間らしい。たとえ、四年しか生きられないレプリカントでも必死に生きようとする姿がSFという枠を超えて、感動を与えるのかもしれない。

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